(平安時代~室町時代) 1185年、天下を二分にした源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人、平清盛の嫡男である平重盛の六男・平忠房(平忠実とも言われている)は家臣と共に、縁戚の宇都宮朝綱(ともつな)公を頼り、関東へ下りました。その後川治の鶏頂山に隠れしのんで生活しておりました。
折も折、一族の婦人が男子を出生、不遇の内にも祝事と喜び、のこり布でのぼりを5月の空に上げたところ、源氏方の眼にふれ、一族は大敗し深手を負って渓谷沿いに湯西川に至りその地を永住の地と定めました。湯西川温泉ではいまだに鯉のぼりを上げず、鶏も飼わない風習が続いております。
忠房公は雪の日に狩に出て、降っても降っても雪が積もらない箇所を発見。不思議に思って手を入れてみると、川原に湧き出る温泉を発見。その場所近くに、「藤の木で作った馬の乗り鞍」(くら)や金銀財宝を埋めました。温泉の湧き出る所ならば子孫の内誰かは掘り起こすであろうと、温泉のことも誰にも漏らさずに、一族と共に不自由を忍び、深山の生活に甘んじ続けたのであります。(当館宝物館に「藤鞍」は展示、当館温泉「藤鞍の湯」の起源です)
(室町時代~江戸時代~近世) 室町時代に本家伴久の先祖であり、平忠房公から11代目の伴対島守忠光(ばんつしまのかみただみつ)は、先祖を祀る「六地蔵供養塔」を建立。天文18年(西暦1549年)と記されて、当地で最も古い建立物として、日光市の重要文化財に指定され、本家伴久の墓所内の慈光寺にあります。伴という字は「平の人」を、敵から身を守るために形を変えた隠れ姓です。 (人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「伻」という字になります。)
この頃先祖同様、雪の日に積もらぬ場所を不思議と思い、湧き出る温泉を発見。同時に数々の宝物を発見した伴忠光は、先祖の配慮に感謝し、今日の湯西川温泉の歴史へと繋がっていくのです。
江戸初期(1666年)湯西川村落として存在し始め、良質の温泉の評判が近隣に聞こえ、湯治宿屋の伴久旅館(本家伴久)の創業となりました。
(現代) 現代湯西川温泉は観光地として栄え、伴久は25代目を継承しています。毎年6月初旬には平家大祭が催されて観光客でにぎわいます。 1994年10月には、湯西川旅館組合主催で、鎌倉より源頼朝会の方々を招き、※平家の里にて和睦調印式が行われました。当館「平家隠れ館」で前夜の宴席で和合し、翌日は「かずら橋」を両家で手を取り合い、渡り初め儀式が行われました。 現代の平和な世で、訪れるお客様の「縁を結ぶ橋」幸せの架け橋となれるよう願いが込められいます。湯西川村民は、現在一丸となって季節の祭りごとを催し、観光客の心を癒す里として現在に至っています。
湯西川温泉で平家の歴史を継承する、本家伴久代々の当主・伴家の系図です。
1994年、800年間にわたる源氏と平家の恩讐(おんしゅう)が、この湯西川の地で和睦に至りました。動画はその時の様子で、源氏の子孫と平家の子孫が仲良く手を取り合って、当館「かずら橋」を渡っている様子です。この橋を渡る時、お泊りのお客様の幸せや平和への「架け橋」となれたら幸いです。 源平の和睦式の時に平家と源氏の両家で仲良く渡った縁結びや友好のシンボルである「かずら橋」。 本館と夕食処の間の、湯西川の上に渡された「平家ゆかりのかずら橋」です。
山口県下関市赤間神宮は、皇位第81代安徳天皇の御霊を祀り、全国平家会の事務総局でもあります。平家一門は日本全国約300ヶ所に分布しているといわれ、全国平家会が組織され一門のつながりを深めています。
本家伴久24代大女将は全国平家会の会長を約20年間務めて、現在は終身名誉会長です。「全国平家総覧」という200頁の本の編集長も務めました。 赤間神宮よりいただいた感謝状には「平家一門への思い深く、平家大祭、落人平家の復権と源平和睦に尽力せられる中、全国平家会の会長として先帝祭に欠かさず参列永年会の発展親睦に貢献された」という内容が記されています。(2014年)平家の歴史と文化を継承させていただけることに感謝です。